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歴史のまち・高槻

「YEG」のある高槻のまちです

ourtown_01高槻市は、大阪平野の北東にあり、京都と大阪の中間に位置しています。北は北摂山地に連なる山並みと丘陵、南は山間から流れ出る芥川・桧尾川などによって形成された平野が広がり、琵琶湖から大阪湾に流れる淀川が市域の南の境になっています。

高槻はこうした変化に富んだ地勢と、淀川・山陽道(のちの西国街道)という水陸2大交通路の要衝であったために、数多くの歴史を有してきました。

弥生時代以来、豊かな田園を育ててきた人々の努力は、この地を三島地域の政治的・経済的中心とし、歴史の流れに大きな影響を与え、弁天山には三島地方で最初の王墓が出現、継体天皇の陵墓と考えられる今城塚古墳や、日本最古最大級のハニワ工場(新池遺跡)など、数多くの遺跡や歴史的遺産が現存しています。
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徳川幕府の重要拠点となった高槻、酒造りとして大きく発展しました。

ourtown_06戦国時代に入ると、宿場町の芥川や城下町高槻は戦場となり、寺内町である富田はことごとく消失しましたが、いち早く復興を遂げ、芥川城に三好長慶が入り、畿内の政治的中心は一時高槻に移りました。そして織豊時代には、キリシタン大名高山右近も登場、江戸時代になると、高槻城は徳川幕府の重要拠点として近世城郭に生まれ変わり、高槻は城下町として繁栄しました。

また、芥川宿は街道の宿駅として整備され、冨田は酒造りを中心とした商工業の町へと大きく発展しました。
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さまざまな都市と提携

ourtown_08明治・大正の時代を経て、昭和6年1月には三島郡高槻町・芥川町・清水村等の5町村が合併して、新しく高槻町が成立、太平洋戦争さなかの昭和18年1月1日に大阪府下で9番目の都市として高槻市が誕生しました。当時は田園風景の広がるのどかなまちで、昭和23年1月には阿武野村、同25年11月には五領村を合併、工場誘致運動を行うほか、同29年には府下衛星都市唯一の市営バスを開業しました。

昭和30年代には成長の時代を迎え、4月には三箇牧村、翌31年9月には富田町、さらに昭和33年4月には京都府南桑田郡樫田村を合併し、現在の市域となりました。

また国鉄(現JR)の快速電車の高槻駅停車によって、利便性もさらに向上し、近代工場も進出して産業化が進展するとともに住宅建設も活発化、当初の田園風景は一変し、大阪・京都のベッドタウンとしての色彩を強めました。とりわけ、昭和40年代は人口が急増し、同44年に20万人、同48年には30万人を突破しました。

また、昭和46年11月には島根県匹見町、同54年1月にはフィリピン・マニラ市、平成3年11月にはオーストラリア・トゥーンバ市、同5年1月には福井県三方町と姉妹都市を、昭和62年3月には中国・常州市と友好都市提携を行い、行政と市民が一体となった交流を交流を図っています。

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